テーマ展示
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テーマ展示について
1.弘津興太郎 『昭和63年の芸備線』
2.小西啓文
『廃線決定の三江線の桜を撮る』
3.川中 勉 『住吉さんと阪堺電車』
4.鶴 紘明 『四季を渡る』
5.沖中忠順 『思い出の烏丸今出川』
6.湯口 徹 『60年前の京阪京津線』
7.佐竹保雄 『マチュピチュへの鉄路』
昭和63年5月の芸備線
芸備線
1988年5月
1979年度生 弘津興太郎
今では珍しくない高速バスが、80年代に
新大阪から広島県の三次まで走り始めた。当時は鉄道と競合する区間の開設は見送られ、 広島に出るには芸備線に乗り継ぐ必要があった。広島に居る姉を訪ね新大阪からバスに乗り、終点まで行かず備後庄原で降りて、芸備線に乗り込む。
この時代は国鉄 からJR西日本に移行して1年。山陰と広島を結ぶ急行『ちどり』がまだ走っていた。
昭和63年5月の芸備線
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備後庄原で到着列車を待つセーラー服姿の高校生らと一緒にホームに立つ。柱の温度計を見ると、夏の気配の25℃。今ではキハ120の単行運転の三次以遠も、 当時は客が多く3両編成であった。
昭和63年5月の芸備線
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福塩線接続駅の塩町にて、乗り換えに向かう友達を見送る多くの顔。非冷房車輌の開け放った窓が30年前である。
昭和63年5月の芸備線
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沿線第一の都市、三次駅の構内。今も昔もあまり変っていない。
昭和63年5月の芸備線
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狩留家駅で『ちどり』と交換。堂々たる
キハ58系6連の急行が滑り込んで来た。
昭和63年5月の芸備線
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芸備鉄道時代の面影を残していた狩留家駅舎。今は広島市内区間の駅である。
廃線決定三江線の桜を撮る
三江線
2016年春
1967年度生 小西啓文
開業から45年も掛かり1975年に全通した三江線はモータリーぜーションが進んでいた事もあり利用客は増えず、年々減少し、 遂に2018年3月をもち、廃線と決まった。 広島県側起点駅三好は、愛妻の実家がありよく来たものだ。2016年春、三江線が最も輝く季節、満開の桜を撮った。
廃線決定三江線の桜を撮る
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江川に沿って潮駅を出発する
廃線決定三江線の桜を撮る
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桜並木が続く田津駅へ進入
廃線決定三江線の桜を撮る
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三江線随一の桜並木、潮駅
廃線決定三江線の桜を撮る
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しだれ桜の尾関山公園の鉄橋
廃線決定三江線の桜を撮る
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両側に桜並木の川戸駅
住吉さんと阪堺電車
南海電車・阪堺線
1966年度生 川中 勉
阪堺線の中で、住吉から住吉鳥居に至る区間は、最も阪堺線らしい雰囲気があり、人間味溢れる場所である。 電車が明治44年に通ってから住吉さんで知られる住吉大社は、この阪堺電車をずっと見守ってきた。
住吉さんと阪堺電車
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今日は秋祭り。お神輿と電車が道を分け
合い住吉さんに着いた。
ワッショイ、ワッショイ、鳥居を潜り若衆が
練ってまつりは最高潮。それを見届けて
電車は安心したように鳥居の前を過ぎて
行く。
住吉さんと阪堺電車
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住吉さんの歴史は古い。人々の思い
を込めた灯篭が重みを感じさせ、生
い茂った樹木が古い過去を覆い隠し
てゆく。電車はそんな風景を横に見て
通り過ぎる。
阪堺線と住吉さんはよく似合う。
住吉さんと阪堺電車
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住吉さんの歴史は古い。人々の思い
を込めた灯篭が重みを感じさせ、生
い茂った樹木が古い過去を覆い隠し
てゆく。電車はそんな風景を横に見て
通り過ぎる。
阪堺線と住吉さんはよく似合う。
住吉さんと阪堺電車
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南海電車の住吉駅を出るとすぐ阪堺電車
の住吉鳥居。人々の生活を乗せて電車が行きかう。鳥居もずっと見続けている景色である。
住吉さんと阪堺電車
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住吉さんの相方、阪堺電車にも一角が崩れるときがやってきた。平成28年1月30日長年親しんだ住吉公園駅が廃止になるのである。 多くの市民が別れを惜しんだ。時代は世の中を移し変わってゆく。この駅は役割を住吉鳥居駅に譲ったけれど、電車も駅を変えるだけで住吉さんとも長く続いて行くだろう。
住吉さんと阪堺電車、末永く!
四季を渡る
1960年度生 鶴 紘明
鉄道が通る建造物の中で一番数の多いのは橋、今ではほとんどが鉄橋、かも知れない。小川を跳び越え、大河を渡り、小径を跨ぎ、大道に架かる。 そんな鉄橋を渡る私鉄の風景です。
大井川新緑
大井川鉄道・抜里-川間温泉笹間渡
かわね路1号
2014年5月 1/4
山々と両岸はすがすがしい新緑。河原に一条の流れ。大きく曲がるガーダー橋を観光列車が通過。露天風呂から、手前の岸から見物客がいっぱい。
大井川秋晴れ
大井川鉄道・青部-崎平
1001レ
2009年10月 2/4
快晴の大井川、流れは奥の岸傍に一条のみ。河原砂漠に架かるガーダー橋を蒸気機関車牽引観光列車が渡る。
紀ノ川を渡る
南海電鉄・橋本-紀伊清水
天空3号
2010年11月 3/4
緑と赤の『天空』が駆け抜けたのは、
紀ノ川に架かるガーダーとトラストの
組合せ橋。石造りの橋脚は径が異なり色々。
丹生川竜王峡
南海電鉄・九度山-高野下
こうや6号
2017年3月 4/4
岩肌を深く削られた渓谷に架かる鉄橋。
向こう岸にある遊歩道と手前の車道にはガーダー橋、中央にはプラットトラス橋が。
あと一週間もすれば辺りは桜の季節。
思いでの烏丸今出川
1959年
1957年度生
沖中忠順
生まれながらの電車大好き人間が、まず心動いたのは、地元の京都市電で少年時代、烏丸車庫の前でナンバーを控えていると『ぼん、そんなに好きやったら車庫へ入れたろか』 と言われたことから市電好きが始まった。なかでも烏丸今出川は御所の緑や、母校の煉瓦建築があり、カメラをぶらさげ登下校の際によく撮ったものだ。 市電がなくなり40年近くになるが、今でもその場所の雰囲気は変わらず、私を市電時代に引戻してくれる。
思いでの烏丸今出川
1959年 1/5
小雪舞う烏丸今出川交差点を渡る600形、左のポイント切り替えの信号塔、交差点
中央の手信号台は、いかにもこの時代ら
しい。
思いでの烏丸今出川
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背後に、当時大学院の校舎となっていた和風の華族会館、明徳館、彰栄館も後ろに見える。
思いでの烏丸今出川
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今出川通りから烏丸通りへ、15号系統が渡って行く。
思いでの烏丸今出川
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最古参とは言うものの、まだまだ美しい車体が夏の光線に映える500形。
思いでの烏丸今出川
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スマートな700形のデビュー直後、今出川通りの学生街に溶け込む。
60年前の京阪京津線
-15年過ごした山科の想い出-
1957度生 湯口 徹
60年前の京阪京津線
-15年過ごした山科の想い出-
1955年12月 1/5
山科の大築堤の裾を走る20型、大築堤上の国鉄の蒸機D52と競争を繰り広げる。疎水山裾の樹木が伸び、のどかな風景も俯瞰できなくなった。
60年前の京阪京津線
-15年過ごした山科の想い出-
1957年6月 2/5
九条山~蹴上の66.7‰勾配を下る。半径20m急カーブのため、これだけ車体を傾けて下ってくる。
60年前の京阪京津線
-15年過ごした山科の想い出-
1955年10月 3/5
複巻電動機回生制動装備の56号。停車直前に発する独特の音は、深夜、早朝には銀閣寺まで届いた由。
60年前の京阪京津線
-15年過ごした山科の想い出-
1955年11月 4/5
枚方公園直通菊人形号の『びわこ』。毎秋の菊人形展のため、浜大津から直通臨時急行が運転された。
60年前の京阪京津線
-15年過ごした山科の想い出-
1955年10月 5/5
京津線では眼をむいた大型2連。京阪線から転入した半鋼流線型車体、車掌は手動扉5箇所を施錠してまわる。
マチュピチュへの鉄路
世界有数の最高所鉄道に、
大規模スイッチバック
1980年11月
1952年度生 佐竹保雄
マチュピチュへの鉄路
世界有数の最高所鉄道に、
大規模スイッチバック
マチュピチュへの鉄路
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列車は急カーブの続く勾配区間をゆっくり上って行く。私の座った最後部5両目からは、カーブに差し掛かると、このように先頭部を写せる。
マチュピチュへの鉄路
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露出した絶壁の下を、列車は恐る恐る通過して行く。現在では、クスコから峠まではバスとなり、直通する鉄道はなくなったと聞く。 すべての写真は列車の最後部から写した。その分、自然に近く、人との距離も近かった、思い出の海外の鉄道だった。
マチュピチュへの鉄路
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始発のクスコ駅に停車する列車、この列車の最後部の指定席車両に乗り込んで出発した。
マチュピチュへの鉄路
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リマを出てすぐの機関区、まだ蒸機が残っているのが見えた。ごく最近まで使われていた様子が伺えた。
マチュピチュへの鉄路
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この鉄道の最大の見せ場である、大規模
スイッチバックを上がっていく。次の画像同様突っ込み線に入ったあと、逆行して推進
運転で上っていくところ。 今までの線路を
はるか下に望み、集落が広がる。
軌間は3フィート(914mm)のようだ。
マチュピチュへの鉄路
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この鉄道の最大の見せ場である、大規模
スイッチバックを上がっていく。前の画像同様突っ込み線に入ったあと、逆行して推進
運転で上っていくところ。 今までの線路を
はるか下に望み、集落が広がる。
軌間は3フィート(914mm)のようだ。
マチュピチュへの鉄路
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大規模なS字カーブもある。とにかくカーブばかりの路線だが、その分、最後部からは、さまざまな写真が撮れた。
マチュピチュへの鉄路
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峠の駅、ポロイは標高3500メートルもある。一行のなかには高山病にかかる人もいるぐらいの高所にある駅だ。
ご協力、
ありがとうございました。