サブテーマ『昭和の関西』
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同志社大学鉄道同好会
クローバー会(OB会)
写真展『鉄 路 輝 く』
<サブテーマ>
『昭和の関西、
心に残る鉄道風景』
憧れの「つばめ」「はと」
京都を発車したEF58の牽く上り「はと」 1959年
1957年度生 沖中 忠順
昭和の時代、特急列車は憧れの的だったその象徴は、やはり東海道線を走っていた 「つばめ」「はと」だろう。
憧れの「つばめ」「はと」
「つばめ」は、まっさらな151系に
1960年 山科~京都
1957年度生 沖中 忠順
昭和の時代、特急列車は憧れの的だったその象徴は、やはり東海道線を走っていた 「つばめ」「はと」だろう。
紀見峠の秋
南海電鉄高野線紀見峠付近 1969年12月
(準会員)矢崎 康雄
冬の斜光線が山肌を輝かせる朝、デワ2001が単行で上がって来た。 同車は、
生まれが高野山電鉄。正面は難波側が非貫通、反対側は貫通、回生ブレーキ付である
憩うハチロク
和歌山線 五条 1969年12月
(準会員)荻原 俊夫
和歌山線の五条支区に憩う形式入りナンバープレートの「ハチロク」、 給水塔や給炭台は、古き時代の雰囲気を残していた。
重連の咆哮
和歌山線 北宇智付近 1967年2月
1962年度生 中林 英信
和歌山線では珍しい雪景色となった。仲間とともに待ち構えるなか、蒸機重連の牽く列車は、 編成をドレーンで包みながらスイッチバックの駅を発車し峠へと向かう。
命短し「あすか」
関西本線 加太~中在家(信) 1965年12月
1962年度生 中林 英信
特急「あすか」は、昭和40年3月に特急「くろしお」の回送を兼ねて、名古屋~東和歌山の DC特急として誕生した。極端に利用率が低く、わずか2年半で運転を終えた。
洛北のポール電車
木造車デナ1
京福電鉄叡山線八瀬付近1960年
1964年度生 宮本 郁男
私の生まれ育った地、洛北を走る“叡電”は、私にとっては“ゲタ電”だった。 窓にアールのついた、優美なポール電車の時代、鄙びた車窓の風景にも思い出は尽きない。
帰 郷
西大寺鉄道 1962年1月
1964年度生 田野城 喬
国鉄赤穂線の開通で廃止の噂が聞こえてきた。西大寺鉄道は田舎道をひょうひょうと歩む。 真新しい背広の青年が降りる先には弟だろうか、緊張した顔で待っていた。
C55が居た頃の和田山
山陰本線和田山駅 1962年12月
1965年度生 早川 昭文
山陰本線、播但線のジャンクション和田山。日本のマチュピチュ竹田城の下車駅として 有名になったが、昭和の時代は山に囲まれた好ましい雰囲気の駅でC55が
活躍していた。
鳩のいる駅で
天王寺駅 1969年
1967年度生 小西 啓文
列車から下車した乗客、背後に並ぶ113系電車、キハ58系DC、キハ82系DCの国鉄型車両と、 “鳩のいる駅”は、昭和のにおいがプンプンだった。
逢坂山を越える
京阪電鉄京津線 大谷 1971年7月
1968年度生 西村 雅幸
百人一首にも登場する逢坂山の難所を、ヨーロピアンスタイルの電車が軽快に越えてきた。 今では、地下鉄東西線に入る
4両編成が通り過ぎるが、この一角だけは変わっていない。
「ことぶき」の見送り
東海道本線 大阪 1973年10月
1968年度生 井原 実
昔はホームで見送りの光景を見かけた。とりわけ新婚旅行の見送りとなると、ホームが一気に 華やぐ。「ことぶき」に乗る新郎は羨望とやっかみが混じった手荒い祝福を受ける。
追憶の「僕たちの上笠田」
北勢線 上笠田駅 1973年9月
1970年度生 山田 耕三
もう、駅がなくなった上笠田。
そうだ!行ってみよう。上笠田へ。
あれから半世紀
江若鉄道 北小松~白鬚 1969年9月
1971年度生 貝塚 恒夫
廃止の一ヵ月前、今のような喧噪もなくいつも通り列車は走り、そして去って行った。 鉄道がなくなっても国道沿いの風景は今も同じ、目を閉じると50年前が思い出される。
雪晴れの貴船
京福電鉄(当時)鞍馬線 貴船口 1975年1月
1974年度生 佐々木 秀隆
松の内に京都市内にうっすらと積もった雪も、貴船に来ると大雪だった。 数える人しか乗っていない鞍馬行きの電車が通り過ぎると、あたりに氷点下の静寂が訪れる。
小特集1 三都の路面電車
京都市電四条線
1961年度生 沖中忠順
四条西洞院で北野線N電と合流し、三線式の軌道となる。
京都市電四条線
1970年度生 荻原俊夫
地上を走っていた京阪電鉄と交差して四条大橋を渡る。
京都市電四条線
1971年度生 小西啓文
祇園祭のころ、鉾を見て四条通を行く。背後の銀行などの看板も懐かしい。
京都市電四条線
左/1961年度生 沖中忠順
右/1963年度生 吉田耕司
京都市電四条線
1971年度生 小西啓文
京都市電四条線
写真展会場の「西利」前付近の早朝を走る。
1972年度生 福田静二
“水の都”の路面電車
大阪市電 阪急東口
1968年度生 井原 実
日本初の公営路面電車として、なにわの街を走り続けた大阪市電。 梅田の懐かしい建物が並ぶ。
“水の都”の路面電車
大阪市電 天王寺公園前
1972年度生 福田静二
日本初の公営路面電車として、なにわの街を走り続けた大阪市電。 大阪のシンボルを見て。
山手と浜手を結んだ 神戸市電
須磨水族館前 1963年
1960年度生 鶴 紘明
"みどりの市電"として、スマートな車体は、モダンな街に溶け込んでいた。
浮き輪を持って海水浴へ。
山手と浜手を結んだ 神戸市電
三宮阪神前 1962年
1960年度生 鶴 紘明
“みどりの市電”として、スマートな車体は、モダンな街に溶け込んでいた。
そごう百貨店地下、阪神電車のりばに向かう。
小特集2 関西私鉄の競演
p-6 特急 激走
阪急京都線水無瀬付近 1960年
1956年度生 故・羽村 宏
故人は阪急を、なかでもデイ100、P-6 を何よりも愛していた。特急運用に就いた際 モーター音を響かせ、短尺レールのジョイント音と揺れ、五感で魅力を感じ取っていた。
“喫茶店”進入
阪神電鉄 1969年12月
1961年度生 沖中忠順
まだ新性能電車化の前の阪神。スリムな小型電車の天下だった。 貫通扉のガラスが下部まであり、“喫茶店”とも”床屋”とも呼ばれた優雅なスタイルで、カーブの多い線路をブッ飛ばす。
卵形急行快走
京阪電鉄森小路付近 1967年2月
1963年度生 吉田耕司
京阪に入社した人間として、歴代の電車への思いは数知れないが、やはり入社の頃、 実際にハンドルを握った車両には、愛着が湧いて来る。
わが愛しの近鉄特急
近鉄大阪線大和国分付近 1960年3月
1962年度生 中林 英信
大阪生まれにとって、近鉄歴代の特急車両には思い出は多い。なかでも 2250系は、 昭和28年、大阪線初の特急専用車として誕生し、電車らしい端正なスタイルが心に残る。
伝統の南紀直通特急
南海電鉄今宮戎付近 1969年2月
1965年度生 早川 昭文
南海伝統の南紀直通列車の最後の頃で、最後尾に客車が連結され、 国鉄紀勢線
に乗り入れていた。
組み写真
最長の急行列車「高千穂」 28時間の乗車ルポ
1966年度生 川中 勉
“客車急行”、なんと旅情を誘う列車だろう。庶民の身の丈にあった、 機械音のない純粋の鉄路の音、眠気を誘う肩を揺するような車輛のゆったりした揺れ、SGのほんわかした蒸気暖房、 明け方の冷えた車窓の露・・。一緒に写ったもう会うこともない旅人と共に28時間乗り続けた。
組み写真
最長の急行列車「高千穂」 28時間の乗車ルポ
1966年度生 川中 勉
組み写真
最長の急行列車「高千穂」 28時間の乗車ルポ
1966年度生 川中 勉
組み写真
最長の急行列車「高千穂」 28時間の乗車ルポ
1966年度生 川中 勉
<サブテーマ> 『昭和の関西、
心に残る鉄道風景』 完